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マーラー  大地の歌

白日夢のような幻想世界

  • ヘルベルト・フォン・カラヤン (指揮)
  • ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
  • 1973〜74年 セッション録音

各パートを柔かく奏でさせている。フレージングにコシとか芯は感じられず、輪郭は甘め。音として聴きとれても、生気が抜かれている。それらが広々とした空間の中で溶け合って、白日夢のような幻想世界を作り上げる。録音の仕上がりも、そうした味わいを助長する。
しなやかで美しいけれど、表情は虚ろで実体感を欠く。音響としては平板ではないけれど、音楽の表情としては彫りが浅いというか、そうとうにムード的。
それでも、アンサンブルの尋常ならざる洗練、入念さと集中力、指揮者の趣味の良さで、安っぽくはならない。

こういうムード主体のアプローチで、第6楽章の管弦楽のみによる長い中間部が気になったのだけど、もちろん響きの質感は保たれているけれど、テンポを落として一層深い呼吸でオーケストラを息づかせて、起伏を作り出している。さすがに胸に迫ってくるような迫真性は感じないけれど(わたしの場合)。

『大地の歌』のオーケストレーションの精妙な美しさをクローズアップする、というやり方は大いにありうると思う。しかし、作品書法の肌理をぼかす方向で、ソフトフォーカスな音響美に耽るというのは、ユニークではないだろうか。
楽譜に記された一音一音の意味を追求し具現化するより、楽譜を踏み台として、カラヤンの芸術性(あるいは趣味・嗜好)が強く打ち出されていると思う。

自己主張はかなりのものだけど、作品解釈の枠にギリギリ収まっている・・・ような気はする。
作品の中の己れのインスピレーションを刺激する特質に強く反応している、というところだろうか。ここでは、色彩的で甘美な管弦楽法とか、浮世離れした雰囲気に触発され、この指揮者なりに思い入れの強い演奏をやっていると思う。

偶数楽章を歌うルートヴィヒは、同曲の複数のレコーディングに参画している。この演奏では、カラヤンのコンセプトを斟酌して、抑制の利いた歌唱を繰り広げている。

儚く浅い夢

  • ヨーゼフ・クリップス (指揮)
  • ウィーン交響楽団
  • 1972年 ライブ録音

演奏に浸るのに十分なだけのステレオ録音。

減点法で評価すると、いろいろ気になるところはある。テノール(ジェス・トーマス)は声を張りすぎて調子っぱずれな印象だし、アルト(アンナ・レイノルズ)も声の安定感がもう一つ。クリップスの指揮にしても、地味で薄い。

しかし、演奏が進むうちに、クリップスの生み出す、どこか儚さを感じさせる、夢見がちな表現に引き込まれる。
『大地の歌』の美しい演奏、幻想的な表現は他にもあるけれど、クリップスは一味違う。どっぷりと幻想世界に浸るのではなくて、"浅き夢"くらいの感じ。深くも大きくもなく、なにかのキッカケで醒めてしまいそうに儚い。そして、その儚さゆえに離れがたく、愛おしいみたいな。
けっこうな大曲である『大地の歌』を、こんな風に響かせることは、もしかしたら難しいのかもしれない。

すべてのパートが、しなやかで繊細。力を抜いて軽く音を出している感じだけど、各声部の線はくっきり。ホールの空間に溶け込むような響かせ方が心地よい。放送用録音なので、エンジニアの小細工ではなく、クリップスと各奏者の技だろう。
個々の声部の線を細やかに浮き立たせながら、親密なアンサンブルが繰り広げられる。肩の力を抜くことで、楽曲の微細な変化に漏れなく反応して、ことごとくを実体のある響きとして聴かせる、みたいなやり方がすごくハマっている。
物理的な響きは薄めだし、抑揚の幅も広くはない。感情表現としても穏やか。なのに、ニュアンスは溢れんばかりに豊か。

上の通り、アルトは安定感がもう一つだけど、指揮者の方向性とは一致している。クリップスの音楽を満喫するという点では、いいかもしれない。

繊細感際立つ管弦楽を背景に、名歌手が存分に歌う

  • パウル・クレツキ (指揮)
  • フィルハーモニア管弦楽団
  • 1959年 セッション録音

古いステレオ録音だけど、音質は良好。新しい録音と比べて、響きの実体感は聴き劣りするけれど、情報量は必要十分だし、自然な空間の広がりを感じさせてくれる。

クレツキの指揮は、アクの強さは感じないけれど、作品を完全に消化して、独自の世界を作り上げている。
個々のパートは軽い音の出し方で、しなやかかつなめらか。ウェットな艶を感じさせる美しい響きを引き出している。そして、粘っこい感じではないけれど、フレーズのラインは絶えずしなやかに曲線を描き出す。そして、それらを親密に織り上げている。
程よい広がりと厚みを保ちながら、全体に涼やかな色合いで、繊細感が際立っている。

オーケストラはうまいし、クレツキの統率も冴えている。ただ技術的にうまいというだけでなく、瞬間瞬間に演奏者の美意識がサウンドにはっきり映し出されている。美的にも機能的にも高品質な管弦楽だけど、機能性はむき出しにならず、しなやかな質の抒情味を帯びている。

すみずみまでクレツキの美意識に磨かれているから、演奏の色調はハッキリとしている。しかし、押し出しの強い個性とは言いにくいかも知れない。シリアスだったり深刻な気分に浸りたいとか、明るい色彩感とか、即物的なキレなんかを期待する人には向かない。

テノールは、ところどころで目立つ音のはずし方をしていたりで、もうひとつ。
一方、偶数楽章を受け持つフィッシャー=ディースカウは、存分に自分の歌を披露している、と思う。クレツキの管弦楽は、独自の色合いをしていても、オーバーアクションはほとんどないし、歌手に対してはジェントルな印象。
第六楽章あたり、フィッシャー=ディースカウは、落ち着いて、自分の筋書きを展開できているように聴いた。そして、とりわけ後半は引き込まれた。
個人的に、この曲のオーケストレーションには、艶のある女声の方が合うと思う。また、フィッシャー=ディースカウの折り目正しい歌唱が、歌詞の醸す気分にそぐうかは疑問。それでも、この音源での彼の歌唱は印象的。

曰く言い難い、得がたい空気感

  • オットー・クレンペラー (指揮)
  • フィルハーモニア管弦楽団
  • 1964,1966年 セッション録音

目前で演奏しているような音の録り方は好き嫌いが分かれそうだけど、演奏者のやっていることは鮮明に聴こえてくる。ただし、音が大きくなると、ときおり歪む。

揺るがない造形と、きつめの克明さで、楽曲の構造とか書法を描き上げている。
クレンペラーは、聴こえるか聴こえないかくらいの弱音を使わない。そして、音の抑揚の変化を彫り深く明確に音にする。さりげなさとか、移ろうような進行はない。骨太でダイナミックに聴こえる。さらに繋ぎ目や休止を注意深く扱うけれど、余韻に耽ることをしないので、即物的に聴こえる。
作品の成り立ちを剥き出しにするような、武骨なアプローチ。

このやり方だと、リズムの調子だとか、フレーズのニュアンスとかつなげ方、各パートのバランスとか、ごく基本的なことでしか独自の表情づけができない気がする。にもかかわらず、曰く言い難い空気感、感情とか気分と言えるほど明確ではない、静かに張り詰めたような空気感をもたらしている。あたかも、全曲に通底する語り手の心境を、表象しているような空気感を。
この演奏を聴くたびに、ごく基本的な技を使いこなしながら、他者との大きな差異を生み出すクレンペラーの表現力に打たれてしまう。

また、こういう武骨なアプローチによってすら、非日常の空気感が醸し出されるということは、『大地の歌』の書法の洗練とか熟成の証明にもなっていると思う。
そういう意味で、作品にとっても、クレンペラーにとっても幸せな音源だと思う。

ヴンダーリッヒ、ルートヴィヒともに、指揮者の作り出す呼吸に則って、ダイナミックで抑揚のある歌唱を繰り広げている。この管弦楽をバックに歌うからには、小細工や思わせぶりは許されないだろう。そのぶん、歌詞からすると、力強さが勝っているように聴こえるかもしれない。とはいえ、実力者たちが、その声の魅力と威力を存分に発揮できていると思う。

多様でリアル。卓抜な想像力と表現力

  • クラウス・テンシュテット (指揮)
  • ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 1982,1984年 セッション録音

テンシュテットの管弦楽は、造形は整っていて、呼吸は深過ぎず浅過ぎず、安定している。その一方、個々のパートの表情とか、総体としての響かせ方には、徹底したこだわりを聴かせる。

パターン化された響かせ方ではなくて、場面毎にふさわしい表情とかバランスを突き詰めている感じ。テンシュテットのサウンドに対する感度はすばらしくて、それを現実の音に置き換える手腕も優れている、と感じる。マーラーの意図したサウンドに迫れているのかは分からないけれど、多様でリアリティがある。

そして、それぞれの楽器を濃く奏でさせながら、総体としては混濁感のない明瞭なサウンドイメージを聴かせる。生々しさと明晰さという併存させがたい要素を、このレベルで並び立たせるのは容易ではないと思う。
テンシュテットの表現力は、名だたる指揮者たちの中でも抜きん出ていると思う。

ディテールの表情の作り方に創意を聴かせるけれど、呼吸や歩調はいたって安定しており、展開のさせ方は落ち着いている。部分をしっかり作り込むために、煽ったり揺さぶったりを控えている、ということか。聴きようによっては、手堅い。
そのせいか、音楽に引き込まれるような感覚は弱くて、冷静にテンシュテットの芸を味わうように聴き通した。

アグネス・バルツァの、上品というか、時折おっとりとして聴こえる歌唱は独特。歌詞の世界に入り込むより、語り手的な立ち位置で、耳当たりよく聴かせる。

格調高く、入念に磨かれたバリトン

  • レナード・バーンスタイン (指揮)
  • ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 1966年 セッション録音

偶数楽章をフィッシャー=ディースカウ(バリトン)が担当。
個人的には、色彩豊かな高音パート群がこの曲のオーケストレーションの特徴の一つと考えており、艶のある女声の方が響きの点で管弦楽としっくりと馴染むように感じる。

フィッシャー=ディースカウは噛んでふくめるような歌いっぷり。抜群の滑舌。端正で彫りの深い表情。折り目が正しすぎて、感情が溢れ出すような質感は乏しい。このあたりは好き嫌いが分かれるかも。だとしても、聴き応えのある歌唱には違いない。

フィッシャー=ディースカウの格調高く、入念に磨かれた歌唱に対して、バーンスタインによる管弦楽は直情的でエキセントリック。必ずしも噛み合っている感じではないし、それを置くとしても、荒削りというか、楽曲の書法をさばけていない感じがある。

管弦楽は、個々のパートは雄弁で、それぞれの音量バランスはコントロールされているけれど、総体としての音響が意識されていない感じ。恒常的に響きが濁り気味で、音を出すパート数が増えてくると、聴き苦しくなる。また、表情にアクセントをつけるために、積極的に特定のパートを際立たせるのだけど、その際にも響きのバランスを崩しがち。
活きの良い楽章では、粗さが痛快に聴こえなくもないけれど、第二楽章や第六楽章ともなると、覚束なさを意識させられる。他の優れた演奏と比べて、楽曲の精妙な書法の表出が鈍い。

このページで採り上げている他の演奏と比べてしまうと、合奏としての品位の低さを意識させられる。

クールに澄ました響きで、楽曲の想念に分け入る

  • ピエール・ブーレーズ (指揮)
  • ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 1999年 セッション録音

透明度が高くて温度感の低いサウンド。音の粒子が鮮明で、すばらしく柔軟。
個々の奏者は肩の力を抜いて、純度の高い音を出しつつ指揮者の指示に鋭敏に反応しているような感じ。
繊細感が際立っているけれど、か細くも、華奢にもなっていない。低音パートは、音楽の恰幅を保ちながら、サウンドを濁らせないようにコントロールされている。
洗練が行き過ぎて、生々しさがきれいに拭い去られた響き自体は、好悪がはっきり分かれそう。
しかし、やっていることのレベルは文句なく高い、と思う。

クールに澄ましたような調子ではあるけれど、表現の柔軟さの幅はかなり広い。
全体のペースは小気味の良くスムーズだけど、ここぞというところではさりげなくペースを緩めて、聴き手を引きずり込むような深い息遣いを聴かせる。感覚的な洗練や知的な統制は微動だにしていないけれど、そのうえで楽曲の描き出す想念の世界を積極的に展開している印象がする。

このような、クールで澄ました質感と、楽曲に込められた想念に分け入るような表現の取り合わせは、わたしには新鮮。
『大地の歌』の歌詞とは異質な世界観かもだけど、こちらの想像力を強く刺激してくる演奏には違いなく、とても聴き応えを感じた。

楽曲の原風景を、生々しく描き出す

  • ヤッシャ・ホーレンシュタイン (指揮)
  • BBCノーザン交響楽団
  • 1972年 ライブ録音

BBC LEGENDSによるステレオの正規盤。

ゆとりのある安定したテンポにのせて、入念に表情が作り込まれていく。サウンドはクリアで見通しが良い。各パートの動きやコンビネーションは手に取るよう。フレージング自体は粘っこい感触ではないけれど、何気なく流れていく音は一つもない。音楽の凹凸のすべてに息遣いがあり、ニュアンスが施されている。その入念さ、執拗さゆえに、濃い情緒とか空気感が生み出されている。

色彩感の乏しいサウンドのせいなのか(録音も影響していそう)、荒涼とか寂寞などと形容したくなるような、独特の空気感に押し包まれている。
圧巻は第6楽章で、聴き進むうちに、溢れ出してくる想念とか妄念に押し包まれるような心持になり、茫然としてしまった。

大編成のオーケストラを、響きの一つ一つを鮮明に浮き上がらせながら、立体的かつスケール豊かに鳴らすホーレンシュタインの手腕は、一級品と感じる。
ここでの彼は、その手腕を、聴き手を煽ったり心地よくするためではなく、この楽曲の原風景とでもいうようなものを、生々しく描き出すために使っている、ような気がする。それも、感情移入とか陶酔ではなく、知的な統制と強い集中でもって、楽曲に浸り耽るような感じ。
ホーレンシュタインの個性は歴然としているけれど、聴き進むうちに、楽曲その物と向き合っているような心持ちがしてくる。

独唱の二人、オーケストラのいずれも、格別印象的ということではないけれど、ホーレンシュタインの意図を汲み取る上で不満を感じさせない。

ワルターの細やかな芸の冴え

  • ブルーノ・ワルター (指揮)
  • ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 1952年 セッション録音

モノラル録音ながら鮮明。作られたような鮮明さで、自然な広がりは感じにくいものの、ワルターの細やかな芸が手に取るように伝わってくる。

ワルターは、落差の大きな表現や、骨太な響きを好まないようだ。そういう要素を退けて、繊細な技でもって、管弦楽の書法を細やかかつニュアンス豊かに描き上げていく。

この指揮者は、精妙さの枠の中で、つまり野太くあるいは刺々しくオーケストラを鳴らすことなく、激しさや濃さをも表現できてしまう。第一楽章はかなり激しく聴こえるけれど、バリバリと鳴らしているようなうるささはなくて、アンサンブルの肌理は保たれている。第六楽章にしても、管弦楽の各パートの線は細くて、スッキリ気味に響かせながらも、多彩な歌わせ方で濃やかさを表出している。管弦楽の肌理を鮮やかに表出させることによって、楽曲の各部のニュアンスを描き出していく、というスタンスが徹底されているし、その方向で磨き上げられている。

ある種の優れた演奏の後にこの演奏を聴くと、ダイナミズムとか、大きな息遣いみたいな要素を乏しく感じる。指揮者の生み出す呼吸に持っていかれる、みたいな体感はしない。しかし、ワルターの流儀に耳が馴染んでくるにつれて、繊細な技による入念な造り込みによって、音楽の表現の幅は十分に確保されていることに、納得させられてしまう。

管弦楽の肌理の出し方は明晰だけど、歌わせ方とか刻ませ方とかには、往々にして艶っぽさとかしなが施されている。丹念な手つきで。そのせいか、見通しの良さをを一貫させつつ、甘口のロマンティシズムが漂っている。濃さは場面によって変わるし、息苦しいほど濃くなることはないけれど。
楽曲の持ち味に反応しつつも、指揮者の嗜好が強く映り込んでいる印象。

肩の力を抜いて、細やかで美しい音楽に浸る

  • ブルーノ・ワルター (指揮)
  • ニューヨーク・フィルハーモニック
  • 1960年 セッション録音

ディテールが鮮明で、かつ空間の広がりを感じさせる。録音年代を考えると、物理的には優れたステレオ録音。ただし、音の余韻とかは素っ気なくて、センスの良い音作りではないかも。

音楽の展開のさせ方とか足取りは淡々として、落ち着いている。歌詞の世界観に深く分け入るより、オーケストレーションの細やかな美しさを実感させてくれる。
淡々と運びながら、楽曲のオーケストレーションを、色彩豊かに響かせることに徹している。

そして、素晴らしい腕の冴え。
個々のパートの歌は、柔らかくて抑揚たっぷりだけど、穏やかかつ端整に全体の秩序の中に収まっている。アンサンブルの全体は、重量感はないけれど、十分な広がりと厚みをもって、歌唱を包み込む。
淡々とした雰囲気が一貫しているせいか、華やかな感じではないけれど、パステル調に色とりどり。

この録音以降、同系統のアプローチで、より音質の優れた音源が複数登場している。それらと比べて、こういう方面でのワルターの力量を改めて実感。この程度の録音の古さを余裕で補ってしまうくらいには凄い。

上に書いた通り、歌詞の世界観に深く分け入るような音楽の作りではない、と思う。とは言え、彼のアプローチが作品世界から乖離しているわけではない。よく知った楽曲で、心置きなく自分の音楽をやっている、とでもいうようなところだろうか。
肚に響く音楽とは違うけれど、肩の力を抜いて素晴らしい音楽に浸る、みたいな感触は心地よい。

二人の歌手は、歌唱そのものの訴えは控えめだけど、ワルターが編み上げるアンサンブルの構成要素として貢献している。ワルター中心に音楽を楽しみたい聴き手には、ほどよい塩梅と思う。


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