マーラー  交響曲第6番

古典的な立ち位置から、書法の爛熟を描き出す

  • ジョージ・セル (指揮)
  • クリーヴランド管弦楽団
  • 1967年 ライブ録音

正規のライブ録音。もとは放送用の録音らしく、音の広がる感覚は乏しい。

セルの描き出す作品像は、古典的なバランス感覚に立脚している。作品書法の過剰さを意図的に騒々しさや混沌につなげることをしない。過剰なものを、過剰さはそのままに、各パートを噛み合わせて、それぞれをバランスさせながら編み上げていく。過剰さを書法の"爛熟"として聴かせる。

音響の坩堝とか、阿鼻叫喚みたいなものを期待すると、たぶん裏切られる。そういう方向を見ていない。
しかし、血の気の薄い、スッキリ系の音楽とも違う。
各パートは基本的にはシャープなのだけど、総体としてのサウンドには厚みと力感がある。壮大趣味とか、サウンドによる威嚇めいたものはないけれど、音のうねる感じが一貫している。
そして、歌い回し自体に粘っこさはないけれど、フレーズの線を浮き立たせて、抑揚を細やかに施しながら、綿密に絡み合わせていて、密度を感じさせる。パッと聴いて濃密とは感じさせないけれど、進むにつれてジワジワとくる。
ライブ録音とは言え正規録音。実録ライブ録音のような爆演ではない。しかし、彼のセッション録音では感じにくいある種の熱はあって、快速〜中庸くらいのテンポとあいまって、ヒタヒタと蝕んでくる。

セルは、一方で切れ味鋭い感覚を持ちながら、その一方で古典的な作法(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらを前提として)の使い手であった(と思う)。そんなセルが、この交響曲の形式上の特徴である古典的な楽章構成、純器楽的様式を地で行くことを通して、その"爛熟"ぶりを表出している、と思う。単に明晰・緻密な演奏、ということではない、と思う。
今となっては、この交響曲の渋くて地味なアプローチという気がするけれど、楽曲の成り立ちを味わう上で内容のある音源と思う。

そういう理屈はともかくとして、この演奏のアンダンテ(ここでは第三楽章)は素晴らしい。録音のせいでサウンドの艶が乏しいのは残念だけど、控えめに貫かれている緊張感、静けさ、深い呼吸、自在なフレージングなんかがあいまって、引き込まれる。

限界領域で本領発揮のカリスマ

  • ディミトリ・ミトロプーロス (指揮)
  • ケルン放送交響楽団
  • 1959年 ライブ録音

実録ライブ録音。わたしが聴いたのは「GREAT CONDUCTORS OF 20TH CENTURY」シリーズ。モノラルだけど、この種の録音として聴きやすい。たぶんエンジニアがいろいろと調整しているのだろうけれど、人工的な音はしない。

血沸き肉踊る壮絶な演奏。
情熱に突き動かされるような運びだけど、そのわりにあからさまな奏者のミスは少ないし、サウンドイメージは明解。
こういう綱渡りのような演奏に慣れていて、自分とオーケストラをギリギリまで追い込みながら、しかしやるべきことはぬかりがない、みたいな感じ。余裕とは違うけれど、音楽は終始ミトロプーロスの手の内にある、という感覚がある。

響きの質は引き締まって見通し良好。見通しがいいと言うより、オーケストレーションをむき出しにしている感じ。内声部まで良く聴こえる。しばしば木管の呻くような表情がクローズアップされる。
金管はバリバリと生々しく咆哮する。ただし、音楽全体の息遣いに則っているので、うるさくは感じない。

音楽の息遣いを強く意識させる。不自然さはないけれど、テンポとか間合いは大きく伸縮する。
彫りの深い多彩な表現で、陽性の音楽ではないけれど、根底に熱気がたぎっている感じ。アンダンテ(ここでは第三楽章)でも、最終的に熱い思いがこみ上げるような展開。

長大な終楽章はもちろん全開。テンポは自在に変化し、大きな身振りでダイナミックに息づく。しかし、力押し一点張りではなく、楽章の形式を踏まえつつ、オーケストレーションを浮き彫りにしている(古いモノラルなので、すべてを聴き取れるわけではないけれど)。だから、狂熱ぶりが上滑りしていない。
そして、指揮者に食らいついていくケルン放送交響楽団のスタミナは頼もしい。

セッション録音よりライブ録音の方が面白いとされる指揮者は少なくない。ミトロプーロスはそういう典型の一人と思う。彼の場合、単にライブの方がノリが良いというより、オーケストラを限界領域の追い込んだ後にこそ、その本領が発揮される印象。常にうまくいくとは限らないとしても、この音源は目覚ましい成功例と思う。

オーケストラの豊かな響きとテクスチュアを両立

  • マリス・ヤンソンス (指揮)
  • ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
  • 2005年 ライブ録音

3回の公演を編集した録音のようだ。

各パートを分離させて、明解に鳴らし分けている。かなり徹底されていて、響きが交錯する場面でも、一体として表情を作り出すというより、それぞれのパートを分離させたまま、バランスを巧みに調整してまとめている感じ。
アンサンブルは際立って複線的。もちろんパート間でのバランスは場面に応じてコントロールされているけれど、特定のパートが前面に張り出して場の空気を主導する、みたいなことはやらない。それぞれのパートが自立しながら、協調して音楽を作り上げている感じ。
また、各パートが干渉し合わないようにということか、それぞれの呼吸は浅くて身軽。

ヤンソンスは、アンサンブルの明解さ、分離の良さを重んじる一方で、名門オーケストラとホールの特質である、落ち着いた色彩とか響きの良さを存分に引き出している。それゆえに、響きの透明度は低く、締まりを欠きがちで、好みをわけるかもしれないけれど、そういうことを含めてコントロール下にある。また、豊かな響きとテクスチュアの明解さを両立させるために、心持ちゆとりのある足取りになっていて、スケールは大きい。

ヤンソンスがやっているのは、単に細かい音が良く聴こえるという意味での緻密さとは違う。あらゆる細部に実体としてのニュアンスを施したうえで、有機的に組み上げて、一つの音楽を作り上げている感じ。好き嫌いは別として、自らの感性と技でもって正面から楽曲に切り込んでいくような、本格派だと思う。

ただし、複数パートによるコンビネーションとかハモリの妙味、みたいな要素が乏しくなるため、アンサンブルが総体として息づいているような感覚は乏しく、演奏に語り口めいたものを感じにくい。この交響曲を筋書きのある音楽として聴こうとすると、淡白に聴こえそう。
表現力がどうのこうのというより、各パートをスパッと分離する流儀の裏返しとして、なるべくしてなっている印象。ヤンソンスは、あくまでも、有機的な音響の組織体として楽曲を扱っているように聴こえる。
上手く言い表せていないような気がするけれど、好みを分けるポイントになりそう。


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